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レッチ島 by 佐藤勝 (OST 『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』より その2)

2009-07-27

タイトル
レッチ島(Lech Island)
アーティスト
佐藤勝(OST)
ライター
佐藤勝
収録アルバム
『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(Godzilla vs. the Sea Monster)
リリース年
1966年
◆ 不自然なプロット ◆◆
『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』のプロットが不自然なのは(自然なプロットのゴジラものなんていうのがあるのか、といわれると言葉に詰まるが!)、これはもともとゴジラものではなく、キング・コングものとしてつくられたせいなのかもしれません。それが端的にあらわれたのが、このゴジラが日本本土を襲撃しないことです。全部を見たわけではないのですが、そういうゴジラはこれだけではないでしょうか(ただし、このつぎにあたる『ゴジラの息子』も南洋ものかもしれない)。

『南海の大決闘』というタイトルどおり(いや、南海電鉄の「南海」は紀州を指すが!)、冒頭の日本でのシークェンスをのぞけば、話はどことも知れぬ南海の島々に終始します。ゴジラが暴れる「ストンピン・グラウンド」は、実態のよくわからない秘密組織〈赤イ竹〉の基地がある〈レッチ島〉とその周辺の海だけですし、あとは近傍にあるという〈インファント島〉しか出てきません。

モスラとインファント島島民。以前より人口が減少したように感じるのはこちらのひが目か?

どちらの島も人口稀薄で、町といえるようなものはなく、レッチ島のほうに目的不明の構築物があるくらいで、ゴジラはしかたなくそれを壊してはみるものの、居眠りをしたり、人間の女(水野久美)に色目を使ってみたり(種がちがうじゃネーか!)、加山雄三の物真似をしたり、ろくなことをしません。

この映画を見たとき、わたしは中学一年生でしたが、こういうシャレのキツいゴジラがどうも気に入らず、なんだか子ども向け、いや、つまり、幼児向けのような気がしたものです。このあたりから、ゴジラ映画はきびしい時代に入るのでしょう。


◆ さらにエキゾティカ ◆◆
それでもなおかつ、音楽は面白く、その1でご紹介した〈ヤーレン号に乗って?〉以外にも、興味深い曲があります。残ったトラックのなかでエキゾティカに分類できるのは、〈レッチ島〉という曲です。これはもうタイトルからして「島」とくるのだから、エキゾティカのにおいは文字からも漂っちゃっています。

パーカッションの扱いからいうと、ややジャングル・エキゾティカ寄りではありますが、もちろん、子ども向け映画なので、佐藤勝は官能的なほうには向かわず、品のよいところに収めています。

また、メイン・タイトルの変奏曲である〈レッチ島への脱出〉という曲は、エキゾティカ的なアレンジ、サウンドになっています。メイン・タイトルよりこちらのヴァージョンのサウンドのほうがいいと思います。メイン・タイトルにはもっとゴジラらしい曲のほうがよかったのではないでしょうか(キング・コングのつもりでつくってしまったために、ゴジラ的ではなくなったのかもしれないが)。

〈赤イ竹の基地へ〉という30秒ほどの短い断片も、やはりエキゾティカ的な味わいのあるサウンドになっています。もうすこし長くて、まとまった曲ならよかったのに、惜しいなあ、と思います。まあ、映画スコアではよくあることで、しかたがないのですが。

モスラが登場するものには、古関裕而作のオリジナルをはじめ、かならずなんらかのモスラの歌が使われていますが、『南海の大決闘』にも、佐藤勝作の新しいモスラの歌が出てきます。もちろん、古関裕而版オリジナルを凌駕することがなかったのは歴史が証明していますが、これはこれで悪くないモスラの歌だと思います。〈ジャングル・エキゾティカ歌謡〉とでもいうか、折衷的、中間的、ゴタマゼ的なところが楽しめます。

モスラの歌2 南海の大決闘

この映画では、双子の小妖精はザ・ピーナツではなく、「ペア・バンビ」というデュオが演じています。もの知らずで、どういうことをしていたのか記憶がないのですが、おそらくはシンギング・デュオで、このモスラの歌も彼女たち自身が歌ったのでしょう。


◆ ロッキン・ゴジラ ◆◆
なんだかひどく堕落して、人間的になってしまったこの作品のゴジラ像に合わせたのか、佐藤勝は音楽も軽めの方向にシフトさせたように感じます。いや、1966年の製作、公開(暮れ)だから、時代も時代で、ロックンロールないしはエレクトリック・ギターのソロをスコアに取り入れるのは、英米の映画ではよく見られるようになってきていたので、そういう趨勢に合わせたと受け取るべきかもしれません。

『南海の大決闘』では、ギター・コンボによるスコアも使われています。しかも8ビートかつ3コード、ブルース・コード進行なのです。OSTには入っていなくて、タイトルがわからなかったのですが、『ゴジラ・サウンドトラック・パーフェクトコレクションBOX2』のトラック・リスティングを見てみたら、〈ゴジラ対戦闘機隊〉となっていました。

どこかの国がスポンサーになっているのか、赤イ竹の財政基盤はかなり堅固のようで、ジェット戦闘機小隊までもっている。レッチ島のプラントや軍事力を詳細に分析、試算したところ、スペクターやスラッシュと五分で渡り合える組織であることが判明した……なんて幼児退行はさておき、このシーンの音楽がロックンロールなのである。ゴジラも変われば変わるものだ。
これはもう、じつにもってストレートなロックンロール・インストで、複数(2本だと思うが、ひょっとしたらもう1本出入りしているかもしれない)のギターのからませ方に工夫があり、しかも、目だつことはしていないものの、なかなかいいプレイヤーで、遅ればせながら感心してしまいました。

レッチ島の地下プラント。なにをつくっているのかよくわからないが、世界の安全を脅かすものであることはまちがいない。こういうショットもジェイムズ・ボンド・シリーズを想起させるのだが、考えてみると、東宝特撮映画は007よりずっと早くからこの手の構築物をデザインしてきたわけで(たとえば『地球防衛軍』)、本家は東宝、ジェイムズ・ボンドのほうが東宝を見習ったのかもしれない。

ただボックスの表記は「ゴジラ対戦闘機隊(「天国と地獄」M14本番の5)」となっていて、おっと、黒澤明の『天国と地獄』に出てきたんだっけ、というので、そちらのOSTを聴くと、〈酒場の音楽?〉とほぼ同じもの、別テイクないしは別エディットでした。横浜歓楽街彷徨のシークェンスに出てくるもののようです。って、いうことが頼りないのですが、あのあたりはつぎつぎといろいろな「俗曲」(佐藤勝はポップ・ミュージックをこう呼んでいる)が出てくるので、細かくは覚えていないのです。

映画のスコアリングというのは、自分の欲求を満たすためではなく、映画が要求する音楽をつくる仕事なのだからして、佐藤勝も、66年になって突然、こういう方向の音をスコアに取り込んでみようと思ったわけではなく、63年の『天国と地獄』のときにはすでにやっていたわけです。

ジェイムズ・ボンド・シリーズ第一作『ドクター・ノオ』に登場する〈ドラゴン〉。火炎放射器を搭載した装甲車にすぎないのだが、やや子どもっぽいデザインで、ゴジラものを見ているような気分になる。


よく考えると、これはかなり尖端的なことだったような気もします。映画音楽は、ジャンルとジャンルのすき間にはまりこんでしまうことが多いのですが、ことはロックンロール、われわれの側から積極的に再評価を推し進めるべきのような気がします。

また、ひどく日本的なバイアスがかかったものですが、サーフ・ギター・インストに聞こえなくもない曲もあります。開巻まもなく、いにしえのアメリカの「マラソン・ダンス」のゴーゴー版のようなものが登場し、そのダンス音楽として、リヴァーブをきかせたギターをフィーチャーした曲が出てくるのです。

そういう「現実音」、劇中に流れる音楽ばかりではなく、純粋なスコアの部分でも、エレクトリック・ギターのグリサンドや、低音弦のリックがしばしば使われています。さらにいうと、やはりリヴァーブをきかせたフェンダー・ベースもしばしば登場します。

はじめからすべて、細かく検討したわけではありませんが、ゴジラ映画にフェンダー・ベースが大々的に利用されたのは、この『南海の大決闘』が最初のことではないかと思います。ビッグバンドやオーケストラにフェンダー・ベースを使うのは、やがて圧倒的多数派になるのですが、この時期、とりわけ日本ではまだめずらしかったのではないでしょうか。

〈赤イ竹〉のボスと幹部。左から平田昭彦、田崎潤、天本英世。いやもうじつにシビれるような東宝特撮男優陣の揃い踏み!

◆ ゴジラは南から、エキゾティカはどこから? ◆◆
80年代以降のゴジラは極端に引用が多くなりますが(たとえば、だれが見ても『エイリアン』だったり『レイダース』だったりする場面が出てくる。そして、あろうことか、ハリウッド版ゴジラまで、後半は『ジュラシック・パーク』のコピーになってしまう)、ゴジラには時代を映す鏡のような側面がもともと強くあったのかもしれません。

『南海の大決闘』の音楽、とくに冒頭の日本国内のシークェンスは、あの時代を反映したサウンドになっています。同じ東宝の看板シリーズで、しばしば怪獣ものとセットで上映された、若大将ものを意識していたのかもしれませんが。

しかし、さまざまな東宝特撮映画のあちこちに顔をのぞかせる、エキゾティカ的音楽の源流はなにか、という点になると、「時代を映す鏡」だったのかどうかは判断しかねます。

佐藤勝 film-composer Satoh Masaru


映画および映画音楽はとほうもない雑食性をもっているので、佐藤勝のように、映画スコアを専門とする作曲家は、外国映画やラジオや町で耳にする音楽につねに注意を払っていたにちがいありません。そして、レス・バクスターやマーティン・デニーの音楽は、当時すでに国内でリリースされてもいました。だから、佐藤勝がそういう音楽を聴いていた可能性はあります。でも、たんなる蓋然性と事実のあいだには無限の距離がありますからねえ……。

妥当な着地点を探すと、佐藤勝はそういうタイプの音楽を何度か耳にしたことがあり、南洋的なサウンドというものを認識していたが、その作り手がレス・バクスターであったり、アクスル・ストーダールであったり、マーティン・デニーであったり、ということは知らなかった、というあたりでしょう。毒にも薬にもならない、まったくもって当たり障りのない、つまらない推測ですが!

ゴジラ・シリーズでは、ほかに、あの作品も音楽が面白かった、などと煽る方がいらっしゃることですし、根が嫌いではないので、あと何本か、ゴジラを含む東宝特撮映画を取り上げるつもりです。しかし、次回はちょっと箸休めで、タイプの違う映画をやろうかと思っています。

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ヤーレン号に乗って? by 佐藤勝 (OST 『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』より その1)

2009-07-22

タイトル
ヤーレン号に乗って?
アーティスト
佐藤勝(OST)
ライター
佐藤勝
収録アルバム
『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』 (OST)
リリース年
1966年
今日7月22日は未明からずっと雨で、10時すぎにやっと雨音がしなくなりました。それが11時ごろになってまた暗くなってきたので、やれやれ、まだ降るのよかよ、と思ってから、ああ、今日は日蝕だっけな、と思いなおしました。

というわけで、南関東の当地では、75パーセントほどの部分日蝕も、ただの雨模様ていどに終わってしまいましたが、皆さまのところはどうでしたでしょうか。当家のお客さんのなかに、皆既日蝕が見られる地域にお住まいの方がいらっしゃる可能性はあまり高くありませんが、南のほうでは、晴天のもと、「太陽の死と再生」を観察できた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

なんだか小学校のときに、日蝕、日蝕と大騒ぎして、ささやかな工作物(穴を開けたボール紙とか、黒く塗った紙とか)を手に、みなが校庭に出てワイワイやった記憶がかすかにあります。今回は46年ぶりだそうなので、その46年前の出来事なのでしょう。残念ながら、むしばまれていく太陽の記憶はないのですが、空は晴れていたことだけは覚えています。いや、虫眼鏡で黒い紙に火をつける実験したときのことと、記憶がまだらになっているのかもしれませんが……。

昔は多くの文化が蝕を不吉なこととみなし、たとえば中国では、日蝕のあいだじゅう、派手に銅鑼を叩いて、魔物を追い払おうとしたそうです。それがいまでは馬鹿騒ぎのダシにされているわけで、まったくもってけっこうなことだと思います。科学は幸福をもたらしはしませんが、迷信にもとづく不幸を防ぐ役には立つのかもしれません。


◆ 南へ、南へ ◆◆
ゴジラはたいてい南からやってくることになっています。どの映画だったか、シリーズの終盤の作品で、登場人物がその点にふれて、太平洋戦争の犠牲者の復讐、といった解釈を提示していました。たしかに、南方戦線で斃れた人がたくさんいらっしゃるいっぽうで、戦場にされたほうでも多くの犠牲者を出しています。

なぜ日本は南方に出て行かねばならなかったか、昔のことばでいうなら「南進する」必要があったかといえば、これはもうエネルギー問題しかありません。「満蒙」のみならず、南方もまた「日本の生命線」であり、つねに「作戦行動地域」だったのです(しいていえば、「日本にいたる回廊」という、戦略拠点としての側面もあるが、こちらのほうは重要性が低いと思う)。

「南方」ということば自体が軍事用語だそうで、百科事典には「日本軍の作戦区域は、当時、イギリス領ビルマおよびマラヤ、フランス領インドシナ、オランダ領東インド、アメリカ領フィリピンという4植民地と、タイ王国に分かれており、それを包括する呼称はなかった。そこで日本軍は総称として〈南方〉という呼称を採用したが、連合軍はこの地域に〈東南アジア〉という呼称を与えた」とあります。

調べていて、へへえ、と思ったのは、南方のことより、「東南アジア」のことのほうです。Southeast Asiaというのは、連合軍側がつくったこの作戦行動地域の呼称だったとは驚きです。子どものころから当たり前のように使ってきたので、軍事用語だなどとは思ってもみませんでした。

それはともかく、「南方」と東南アジアは、すくなくともイメージのなかでは等号で結ぶことはできないように思います。マラヤ(マレーシア)、インドシナ(ヴェトナム)、東インド(インドネシア)はもちろん「南方」です。その心臓部の外側に広がる、いわゆる「南洋諸島」(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)も、前線基地、重要拠点としての「南方」に入れていいのだろうと思います。

もちろん、わたしはリアルタイムで読んだわけではありませんが、『のらくろ』や『冒険ダン吉』が描いたのも、東南アジアというより、南洋諸島のほうだったという印象があります。大昔に『吼える密林』しか読んだことがなく、ほとんどなにも知りませんが、南洋一郎の『緑の無人島』や『南海の秘密境』といった子ども向け冒険小説も、やはり、「南方」を扱ったものなのだろうと思います。

東宝特撮映画、とりわけ怪獣ものを見るのに、現代史の知識が必要なわけではありません。ただ、「南から来る悪夢」もこう繰り返されると、やはり「どこ」から来るのか、追求したくなってくるだけです。80年代以降のシリーズはともかくとして、70年代までの第一シリーズに関しては、やはり製作者側はなんらかの意味および深さで、太平洋戦争を意識していたのだろうと思います。だからゴジラは、地から涌いたり(ラドン)、天から降ってきたり(キングギドラ)することはなく、つねに海を渡ってやってくるのでしょう。


◆ 南進策の果て ◆◆
そういう意味で、今日の『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』は、微妙な設定のゴジラものです。ジェイムズ・ボンド映画、とくにジャマイカを舞台にした一作目の『殺しの番号』、マイアミを舞台にした第四作の『サンダーボール作戦』の影響を受けたと思われるストーリーで、ボンド・シリーズの「スペクター」のような、世界制覇をもくろむ秘密組織〈赤イ竹〉が登場します。一味はみな日本語をしゃべるのですが、名前から連想するのは中国です。

『海底軍艦』のときにも、南方のどこかの島に秘密基地を建設した田崎潤が、こんどは悪玉のボスになって、やはり南洋のどこかにある〈レッチ島〉(ボートでも行けるほどの近くにモスラの故郷〈インファント島〉がある)に秘密基地を建設します。田崎潤はドクター・ノーに相当する役どころですが、あのようなケレンはなしで、平田昭彦を右腕としてストレートに演じています。『海底軍艦』の神宮司大佐はいろいろ演じようがあったでしょうが、こちらは「やりがいなし」というところでは?

平田昭彦のほうは、『ゴジラ』第一作の芹沢博士のように、片目は眼帯で隠して登場します。芹沢博士は沈鬱なキャラクターで、純粋な善玉とはニュアンスが異なりましたが、こちらは純粋な悪玉。でも、この人の面白いところは、善玉、悪玉、両方を演じられるばかりでなく、どちらをやっても、白でも黒でもない、灰色の領域がほの見えることです。得がたい味のある俳優でした。

平田昭彦(左)と田崎潤
それにしても、『海底軍艦』を強く連想させる設定で、なんとなく、苦しまぎれの雰囲気が感じられます。あちこちから流用してきたつぎはぎのように見えるのです(まあ、それをいうなら、時代の下ったゴジラ・シリーズはつねにシーン単位では流用、借用、引用が目だつのだが)。そろそろ日本映画全体も頽勢が目だち、ゴジラ・シリーズも観客が離れはじめたのではないでしょうか。わたしは、この年、中学一年生になったこともあって、この作品をもって、ゴジラ・シリーズとは縁が切れてしまい、以後はテレビで放映されたものを三つ四つ見ただけというありさまになってしまいます。

しいて太平洋戦争のメタファーをもちだすと、〈赤イ竹〉はいわば「南進」した旧帝国軍であり、拉致され、重労働に従事させられたインファント島の住民は、南方諸島、東南アジア諸国の人びとということになるのかもしれません。製作された順序とは逆に、これを第一作『ゴジラ』以前の出来事とするなら、ゴジラが「北進」する原因を描いた作品ということになるでしょう。と書きつつ、自分で「よくいうぜ。それほどのもんじゃネーだろーに」と自分の脇腹をつついています!

メイン・タイトル


◆ オーセンティックなエキゾティカ ◆◆
わたしにとっては「最後のゴジラ」になっただけあって、『南海の大決闘』というのは、言葉に詰まってしまう映画です。ゴジラの敵役のエビラというのが、姿はエビそのまま、名前はエビにラをつけただけという、ひどい手抜きですし、巨大コンドルにいたっては、そんなものが登場したことすら忘れてしまったほど印象稀薄でした。大人の目ではなく、子どもの目でいっても、『三大怪獣地球最大の決戦』までは楽しんでいましたが、これがピークで、あとは関心が薄れていきました。

そういう映画なので、ゴジラを再見するといっても、この『南海の大決闘』はあまり見たくなかった作品のひとつです。それなのになぜ見たかといえば、タイトルに「南」の字があり、そっちの音楽が出てくる可能性が高いと思ったからです。そして、これが期待通りのジャックポットでした。

どういうわけか、日本の作曲家というのは、エキゾティカというか、南方的な曲を得意としているように思われます。当家で過去に取り上げたものとしては、『ガス人間第一号』に登場した〈ドラゴン〉という曲が典型ですが、『マタンゴ』のなかの〈漂流〉という曲などもエキゾティカに分類できます。まだ取り上げていない東宝特撮ものにも、エキゾティカないしはそのサブジャンルである「ジャングル・エキゾティカ」(南洋的というより、アフリカ的なテイストのあるもので、パーカッションの扱いに特徴がある)に属する音楽の登場するものもあります。

しかし、どれか一曲というのなら、いまの段階ではわたしは、この佐藤勝作曲の〈ヤーレン号に乗って?〉を最上のものとします。『ベスト・オヴ・ワールズ・エキゾティカ』なんていう盤が編集されるなら、日本製としてはこの曲を入れれば、それで十分だろうと思います。

サンプル 〈ヤーレン号に乗って?〉 サンプル 〈ヤーレン号に乗って?〉

〈?〉があるのだからして、当然、〈ヤーレン号に乗って?〉もあります。こちらもエキゾティカに分類できますが、30秒足らずの断片で、ひとつの楽曲としての独立性があるとはいいかねます。

ヤーレン号。ディンギー、セイル・ボートではなく、正真正銘の「ヨット」のサイズ。このショットでは〈ヤーレン号に乗って?〉が流れる。
〈ヤーレン号に乗って?〉は、冒頭を聴いただけで、いいなあ、と思いました。ピアノとベースとパーカッションを中心とした低音部の作り方も、メロディーラインを担当する弦も、どちらもすばらしいサウンドです。

あれこれやっているうちに時間切れになってしまったので、『南海の大決闘』は次回へと延長させていただきます。

想い出 by 石原裕次郎(『ゴジラの逆襲』『太平洋ひとりぼっち』『狂った果実』の訂正と補足 その2)

2009-07-19

タイトル
想い出
アーティスト
石原裕次郎 (OST)
ライター
清水みのる作詞、寺部頼幸作曲、久我山明編曲
収録アルバム
武満徹全集 第3巻
リリース年
1956年
前回にひきつづき、本日も、Oさんに提供していただいた資料にもとづく過去の記事の訂正と補足です。今日は『狂った果実』です。

武満徹全集の解説を読んで、おっと、こりゃまた大間違い、と頭を掻いたのは、劇中で石原裕次郎がウクレレを弾きながら歌った曲は、〈狂った果実〉ではなく、〈想い出〉というタイトルであり、作曲者はクレジット・タイトルに記されている佐藤勝でもなければ、武満徹でもなく、寺部頼幸だということです。

寺部頼幸はスティール・ギターおよびギター・プレイヤーで、戦後、弟の寺部震が率いるココナッツ・アイランダースというハワイアン・グループなどでプレイしたそうです。このへんのことはまったく不案内で、たいしたことが書けず、どうも相済みませぬ。調べてもコンプリヘンシヴな記述は見あたらず、

http://www9.plala.or.jp/matchnet/bond.html http://www.alani-aloha.com/alani_cd60405.html http://blog.livedoor.jp/abegeorge/archives/50841352.html

などを参照したにすぎません。こういう人のキャリアには面白い逸話がいっぱいあるのではないかと、鼻がうごめきます。

ということで、Oさんのご厚意により、かつては映画から切り出したものやら、YouTubeのものやらをご紹介したものを、ここにはじめて、遠回りせず、高音質、フル・ヴァースのヴァージョンへとグレードアップしてお届けできることになりました。

サンプル 石原裕次郎〈想い出〉

これをもって懸案解決、と宣言したいのですが、じつは、まだかすかに疑問が残っています。こういうミニ・アルバムが存在することをはじめて知ったのですが(10インチ盤か?)、ここに〈リコール ツー マイ メモリー〉というトラックが収録されていて、作曲は寺部頼幸、作詞は石原慎太郎となっています。なんだか気になります。〈想い出〉の歌詞ちがいヴァリアントの可能性なきにしもあらずです。ご存知のかたがいらしたら、ぜひコメントをどうぞ。

もうひとつ引っかかるのは、佐藤勝作曲、石原慎太郎作詞の〈狂った果実〉という、シングルになった曲はなんだったのか、ということです。これが映画のなかで使われていれば、まったく問題がないのですが、映画の挿入曲は〈想い出〉だけ、〈狂った果実〉という映画と同題の曲は、映画と同じスタッフの手になるものでありながら、映画に登場せず、というのでは、傾げた首が折れちゃいますよ。


◆ やや趣の異なる共作形態 ◆◆
『太平洋ひとりぼっち』とおなじく、『狂った果実』のスコアも、単独クレジットではなく、佐藤勝と武満徹の共作となっています。このとき、佐藤勝は黒澤明の『蜘蛛巣城』で忙しく、とうてい他の映画を抱え込む余裕がなかったということですが、親しくしていた中平康の監督第一作で断りきれず、師匠の早坂文雄のところに出入りしていた武満徹の助力を仰いだのだといいます。武満徹にとっても、これが本格的な映画音楽第一作となりました。

解説によると、作業の分担は、まず佐藤勝が主題歌を書き(結果的にこれは使用されず、そのメロディーはインストへと再利用された)、武満徹が佐藤の構成案にしたがって、メイン・タイトル以下の大部分の曲を書いたのだそうです。オーケストレーションはふたりが分担し、コンダクトは佐藤勝がおこなったとのことです。

プログラム・ピクチャーなので、スケデュールにまったく余裕がなく、撮影に先行して録音された曲も多かったそうで、ノーマルな共作とはいいかねますが、これまた、『太平洋ひとりぼっち』と同様、結果的にうまくいったのだから、ものをつくるというのは、つくづく一筋縄ではいかないと痛感します。

またまたどこかの星団か恒星のような名前がついていますが、以前、映画から切り出してサンプルにした曲を中心に、高音質ヴァージョンをアップしておきました。

以下はサンプル 〈メイン・テーマ〉 〈DB4-M4〉 〈DB8-M8〉 〈メイン・テーマ〉(unused)


◆ 「オンリーさん」というもの ◆◆
武満徹全集の解説を読んでいて、えっ、そういう解釈があるのか、と驚いた箇所がありました。『狂った果実』で北原三枝が演じた女性のことを「人妻」と書いていたのです。あれは人妻ではなく、「オンリーさん」または、それに類する女性でしょう。

「オンリーさん」という言葉がすんなりわかる人はもう少ないかもしれません。進駐軍(米軍)関係者と短期契約を結んだ愛人のことです。進駐軍関係者というのは、軍人および軍属です。軍属とはなんぞやなどといいはじめると、どんどん話が長くなるので略しますが、あの映画で北原三枝を囲っていた外国人は、軍人には見えず、軍属ないしは、それに近いビジネスマンだろうと思います。横浜のベース・キャンプにかかわるビジネスをしている金回りのいいアメリカ人という、当時にあってはごく自然な設定と見て大丈夫です。

鎌倉駅のプラットフォームでばったり会ったときに、彼女が津川雅彦に対して自分の素性を隠そうとしたのは、結婚していることを知られたくなかったからではないでしょう。売春類似の行為をしていることを知られたくなかったのです。あの当時の観客なら、大多数はひと目でそう解釈したはずなのですが、時代が下って、進駐軍関係者を対象とした短期専属契約売春というものが身のまわりからなくなると、それがわからなくなってしまうのでしょう。

なぜ、裕次郎扮する兄が、弟の恋人を強引に奪ったのか、という点に関しても、北原三枝を外国人と結婚したただの人妻だとみなしてしまうと、あの一連の流れを自然に解釈できなくなるでしょう。セリフのなかでも暗示されているように、堅気の女ではない、という明確な認識があったからこそ、裕次郎は直裁に彼女に肉体関係を迫るのでしょう。

そしてそのときに、世間知らずの弟にこういう性悪女は御しきれない、この女狐から弟を守ってやるのだ、というエクスキューズを自分に対してしているのです。観客も、相手はオンリーさんだから、裕次郎の行為に眉をひそめたりはしません。盗人にも三分の理、裕次郎の考えも、それなりに筋が通っていなくもない、と感じるのです。

北原三枝をふつうの人妻とみなすと、裕次郎の行為の意味は異なったものになってしまい、ひいては、映画全体の構造が変わってしまうのではないかと危惧し、またしても、音楽ブログとしては出過ぎたことを書いてしまいました。ご容赦を。


◆ 過去の映画の未来 ◆◆
Oさんと対話していて、いやホントにねえ、困ったことですねえ、と嘆息しました。以下、勝手にOさんの私信の一部を引用します。

「最近では海外でも古い日本映画を容易に見れる環境になっており(中略)、みんな驚くのが、日本では有名な作品がLPやCDなどでフルスコアが音源化されていないこと。欧米の物と遜色のないほどの優れたスコアの数々が埋もれたままになっているのは、マスターテープの不在とかの物理的な問題があるにせよ、音楽文化の成熟度の違いでしょうか? もっと多くの海外の人々に日本映画のサントラに関心を持ってもらって、より多くのスコアが日の目を見ることを切望しております」

まったく同感です。すぐれたスコアがまたまだ大量に眠っているはずで、われわれも気づいていない佳作秀作もあるにちがいありません。

海外のブログやフォーラムをのぞいている方はご存知でしょうが、日本映画に対する海外の需要は無視できない大きさになってきています。それなのに、Oさんも嘆かれているように、世界映画史に記録されるような作品ですら、OSTがリリースされていないことがあるのです。たとえば、『東京物語』や『晩春』、『雨月物語』や『流れる』などといった、日本映画の代名詞ともいうべき作品のフル・スコアが存在しないのです。外国人に、どうしてOSTがないのだ、といわれても、われわれだって答えようがありませんよ。

日本映画界に人がいれば、機は熟した、もはや海外の配給会社にまかせてはおけない、日本の会社が主体となって、積極的にプロモーションをおこなわなければ、ビジネス機会は失われる、と読んでいるはずですが、はて、どうでしょうかねえ。第一歩は、YouTubeの積極的な活用、具体的には、トレイラーの英語版を大量につくり、YouTubeに流すことです。これをやれば、日活アクションなんか、まだまだどんどん売れるでしょう。

いや、こういうことを書いていると虚しくなってくるので、もうやめます。日本映画界が鋭敏であったことなど、かつて一度もなかったのだから、今回もきっと世界の需要を読みそこない、対応をまちがえるだろうという予感がします。わたしにやらせてくれれば、いろいろなことができるのに!

湖畔のふたり by 星野みよ子(『ゴジラの逆襲』『太平洋ひとりぼっち』『狂った果実』の訂正と補足 その1)

2009-07-18

時間がなくて、どこまで書けるかわかりませんが、ときおりわたしの記事の不備を指摘してくださる、まことにありがたいウェブ上の友人Oさんが、昨日、今日のメールのやりとりでいくつかの点をご教示してくださり、また、資料まで送ってくださったので、それをもとに、最近の記事を訂正、補足しようと思います。

まず、星野みよ子の〈湖畔のふたり〉です。これは、『ゴジラの逆襲』の記事では、タイトル未詳で、仮に〈丘のホテル〉と名づけておいた曲の正式なタイトルです。Tonieさんのコメントに対するレスにも書きましたが、これは『ゴジラ・サウンドトラック・パーフェクトコレクションBOX』というセットにボーナスとして収録されているのだそうです。

前々回の記事で、映画から切り出したこの曲の低音質のサンプルをアップしたところ、これまでのなかでも一、二を争うスピードでダウンロード数が伸びていて、驚いています。そして今日は、Oさんのご厚意で、高音質のファイルもアップできる運びになりました。

サンプル 〈湖畔のふたり〉

このヴァージョンでも、映画でブツッと切れた場所で切られているところを見ると、結局、この曲は既存の盤を利用したわけではなく、映画『ゴジラの逆襲』のためにつくられ、その際の録音しか残されていないということかもしれません。もっとも、日本の映画会社は資産の保全に神経質ではないので、どこかにフル・ヴァージョンが埋もれていないともいえませんが。

星野みよ子(『ゴジラの逆襲』より)

◆ 『太平洋ひとりぼっち』の共作形態 ◆◆
これもOさんにうかがってはじめて知ったのですが、『武満徹全集』というセットがあり、『太平洋ひとりぼっち』や『狂った果実』のスコアも収録されているのだそうで、解説をスキャンしたJPEGとサンプルまで頂戴しました。

盤のマスタリングは映画とは異なるし、そもそも光学録音と磁気録音では特性が異なるので、盤からのファイルを聴くと、ずいぶん印象がちがい、今日はおおいにリスニングを楽しんでしまいました。高音質サンプルとして、前回の記事で勝手に〈好天〉と名づけておいた曲をアップしました。すばらしい曲です。

キュー・シートの記載をそのままタイトルにしただけでしょうが、武満徹全集ではこの曲のタイトルは〈M6〉とされているそうです。それはどこの星雲ですか、てなもんで、あまりといえばあまりなタイトル!

サンプル 〈M6〉

Oさんがいっしょに送ってくださった解説のJPEGを読んで、うーむ、そうであったか、どうも失礼つかまつった、てえんで、泉下のマエストロに謝ってしまいましたよ。ひどい誤解をしていたのです。

前回も書いたように、この映画のクレジット・タイトルには、音楽は芥川也寸志と武満徹と並記されているだけで、作業分担を暗示する記載はまったくありません。わたしは、オーソドクスな曲調のものは芥川、ミュージック・コンクレート寄りのものは武満徹であろうと想定しました(いや、プロは技をもっている、お互いの役割を交換するという悪戯だってやりかねない、ということは書いておいたが)。これが大はずれだったのです。

アメリカ式にクレジットを細分化すると、「Music Supervisor-芥川也寸志」であり、「Music-武満徹」というべきで、芥川が音楽監督(およびアレンジとコンダクト)、武満が作曲という役割分担だったというのです。一般論として、オーソドキシーへの明確な理解のない人、基礎のできていない人には、アヴァンギャルドはつくれませんが、武満徹もまたこの原則の例外ではなかったようです。

ピカソの子どものころの絵を見ると、オーソドクスな意味で、つまり、写実という意味で、めちゃくちゃな馬鹿テクの持ち主だったことがわかりますが、武満徹もまた、その気になりさえすれば、保守的な意味での「いい曲」を書く能力は十分にもっていた、たんに資質として、そういうものに拘泥することを好まず、冒険的、発見的創作を指向しただけである、といっていいのでしょう。


◆ 音楽監督と作曲家 ◆◆
しかし、面白いのは、この映画のスコアに出てくる、いかにも武満徹作品らしいと感じさせる、ミュージック・コンクレート的な曲は、じつは、芥川也寸志の明快な指示のもとでつくられた、武満が我を通したものではなかった、ということです。どんな創作者もそうですが、単純化されたパブリック・イメージの向こう側には、複雑なキャラクターが潜んでいるもので、芥川也寸志と武満徹の場合も、それぞれにあまり表面には出てこない「劣性遺伝子」を抱えていたのでしょう。

もうひとつ指摘しておかなければいけないのは、芥川也寸志のオーケストレーションです。どうアレンジするかで、楽曲の色彩というのは大きく変化するものです。M6、すなわち、わたしが勝手に〈好天〉と名づけた曲に、あれほど軽快かつ叙情的な感覚が付与されたについては、楽曲よりも、アレンジ、サウンドの力が大きいといっていいでしょう。

そういう意味で、ヴェテラン芥川也寸志の老練さと、清新な感覚にみなぎった若い武満徹の『太平洋ひとりぼっち』は、理想的な共同作業だったといっていいのではないでしょうか。久しぶりにこの映画を再見して、スコアのすばらしさに強い感銘を受けました。

もはや時間切れのようなので、『狂った果実』の補足と訂正は次回へと繰り越させていただきます。この映画のスコアについても、わたしは大きな誤解をしていたようです。

メイン・タイトル (OST 『太平洋ひとりぼっち』より)

2009-07-16

タイトル
メイン・タイトル
アーティスト
N/A (OST)
ライター
芥川也寸志または武満徹
収録アルバム
N/A (OST)
リリース年
1963年
漢字の間違い、言葉の用法の間違いはまだしも、ひらがなの間違いというのは、かなり恥ずかしいものだと思います。「は」を「わ」と書くのが典型ですが、しかし、言葉は間違いによって変化するという実証例であるかのごとく、「こんにちわ」は大手を振ってまかり通っています。遠からず「これわペンです」と書くようになるのではないでしょうか。

わたし自身、「ず」と「づ」はよくわからなくなります。そもそも、国語審議会もよくわからなかったらしく、理屈の上からは間違いとするべきものを正しいとし、正しいと考えられるものを間違いとしています。たとえば「跪く」は、言葉の大もとから考えていくと「ひざまづく」のはずですが、「ひざまずく」としなければいけないそうです。理屈に合わないことは不快ですが、ルールではそうなっているのです。

「大通り」はひらがなで書くと、「おおどおり」ですが、「おおどうり」と書く人もいます。まったくもって母音は面倒ごとのはじまりで、わたし自身も「扇」と変換するつもりで「oogi」とタイプしてから、ちがった、といってタイプし直したりします。

前々回の『ゴジラ』のときには、日本語のアルファベット表記の規則は変だ、あれでは読めないということを書きましたが、そのときに例に挙げたものの一部は、長音の対象外だということに、あとになって気づき、「こんにちわ」並みのひどい間違いだと赤面しました。

「i」は「a」「e」同様、長音の変則規則の対象外だということを、わたしはきちんと理解していなかったのです。知らなかったのはわたしだけでしょうが、「o」と「u」は長音も兼ねるという無茶苦茶な変則ルールをつくったために、こちらも勘違いするのだといいたくなります。

一国の言語の規則を定める機関がまじめに仕事をしないと、国民が努力しても、ごくごく基本的なレベルで大間違いをするわけで、これはルールのほうが間違っているのだ、といいたくなります。まあ、「ときょ」という首都をもつ国だから、しょーがネーか、と諦め気分ですけれどね。関西に行っても、「おさか」に「きょと」に「こべ」とくるのだから、逃げ場がない!


◆ 太平洋という名の密室 ◆◆
前回もタイトルがはっきりしない挿入曲でしたが、今回も、じつはサウンドトラック盤がないため(市川昆作品の音楽を集めた編集盤に数曲収められているらしいが、もっていない)、勝手にタイトルをつけました。また、スコアの作曲者としてクレジットされている人も二人いるため、作曲者も不明です。わたしの感触では、メイン・タイトルは武満徹のスタイルには感じられないので、芥川也寸志だろうと思いますが。

いちおう、どういう映画かということを説明しておきます。わたしは子どものときもいまも、まったく関心がないのですが、堀江謙一という人がいます。この人物がかつて、ヨット(正確にはディンギーないしはセイル・ボートといわなくてはいけない。yochtは本来、外洋を航行できる大型帆船または機帆船を指す。『マタンゴ』の船はまさに「ヨット」)で大阪からサンフランシスコまで行ったという出来事がありました。いつのことか忘れたし、調べる手間も省きますが、1960年代はじめのことです。

当時、これは大変な快挙と騒ぎ立てられました。わたしは子どもなので、さっぱり意味がわからず、なんの関心ももちませんでした。この年になっても、だからなんだ、としか思わず、この種のこと(「冒険」と当事者とメディアが呼ぶ行為)には価値などないという考えは一貫して変わりません。

しかし、石原裕次郎はセイリングを愛するせいか、この題材に執着し、日活とみずからの会社との共同製作で、映画化にこぎつけます。わたしは小学校四年だったことになりますが、たとえば、『愛と死を見つめて』とまったく同様に、この映画には興味ゼロでした。いや、年齢の問題ではなく、いまでも息苦しい映画は大の苦手です。

大人になり、監督が市川昆だというので、なかば義理で見たのですが、感銘が薄いだけでなく、ひどくテンポがのろくて、ヴィデオだったら、がんがん早送りするにちがいない退屈な出来でした。

いま、具体的な例が出てこないのですが、「漂流もの」という「海洋冒険もの」のサブジャンルがあります。わたしにとっては天敵のようなもので、大好きなヒチコックの『救命艇』ですら、きっと漂流ものなのだろうと、いまだに見ていないほどです。なぜ嫌いかというと、あの閉塞感に耐えられないのです。

映画製作者は、ゴムボートや筏からカメラが動かない致命的欠陥に補いをつけようと、フラッシュ・バックを多用したりしますが、回想シーンのあいだも、ただの間借り、一時的な避難という感覚にとらわれたままで、意識は依然として「洋上の密室」にあり、フラッシュ・バックでは解放感、開放感は得られません。陸に着き、狭いボートから脱出しないかぎり、窒息しそうな気分から抜け出せないのです。

映画が舞台劇と異なるのは、編集によって、自在に、そして瞬時に時空間を移動できることです。しかし、海洋もの、とりわけ、漂流ものは、いつまでも同じ狭い空間から移動できず、わたしのようなタイプの観客は、この苦行から一刻も早く解放されたいと願うことになります。市川昆監督も、この窒息感をやわらげることにおいて特段の能力を発揮することはなく、『太平洋ひとりぼっち』は、この種のものの典型というべき、息苦しい映画です。


◆ 広々、はろばろのサウンド ◆◆
では、なぜそういう映画を取り上げたのかといえば、ひとつの法則を発見したような気がするので、そのサンプルになるのではないかと思ったのです。どういう法則か?

「ディンギーやヨットが出てくる日本映画は音楽が面白い」

という法則です。当家で過去に取り上げた映画でいうと、やはり石原裕次郎がディンギーで帆走するショットが山ほど出てくる『狂った果実』、東宝特撮ものの一篇、大型機帆船という正真正銘の「ヨット」が出てくる『マタンゴ』がこれに当てはまります(『マタンゴ』の登場人物の一部は、当時の有名人のカリカチュアで、そのひとりはほかならぬ堀江謙一だとか)。

ま、要するに、海に出て風を帆に受けたときの気分をあらわすような音楽をわたしはおおいに好む、ということをいっているにすぎず、それを「法則」というのは誇大もいいところですが、でも、「法則」なんてのはみな誇大なものですから、わたしが「ディンギー日本映画音楽よしの法則」を唱えたって、それほど無茶でもないでしょう。

前述のように、OST盤はリリースされていないため、すべて映画から切り出した音質の悪い断片、しかも、多くはセリフがかぶっていますが、すこしサンプルをあげておきました。じつは、すべてのサウンドトラックを切り出し、タイトルをつけて自家製のアルバムをつくったのですが、そんな大げさなものをお聴きになりたい方はいらっしゃらないだろうし、トラブルを招く怖れもあるので、控えめにしておきました。

以下はサンプル(ただし、ここで〈好天〉と仮に名づけた曲のタイトルは正しくは〈M6〉だということがわかり、改めて高音質のサンプルをアップしたので、この曲に関してはその訂正記事のほうをご参照あれ) メイン・タイトル 北風吹く 嘆きの父 伊豆七島 好天 走れマーメイド 近くて遠き


◆ コンビネーション・プレイ ◆◆
武満徹が嫌いということはないのですが、いたって保守的な嗜好なので、グルーヴ、メロディー、和声という次元で音楽を捉える傾向があり、以上のサンプルもまた、保守的な意味で「いい曲」を拾ってみたものです。

〈メイン・タイトル〉は懐かしい手触りがあり、おおいにけっこうです。ほんの数小節で、昔の映画を見ている気分になり、リラックスしてしまいます。こういうすばらしい音ではじまった映画が、あれほど退屈なものになったのは信じられない現象です。

このメイン・タイトルなら、田坂具隆の『陽のあたる坂道』、滝沢英輔の『あじさいの歌』、中平康の『あいつと私』といった、石坂洋次郎原作、石原裕次郎主演、芦川いづみ共演の明朗青春映画のタイトルとして頂戴しても、ぴったりはまるでしょう。いや、わたしは『あじさいの歌』のメイン・タイトルは好きなので、べつにあのままでもいいのですけれどね(いま調べたら、『あじさいの歌』の音楽監督は小津映画の常連、斉藤高順だった。われながら好みが一貫している)。

〈北風吹く〉は〈メイン・タイトル〉の変奏曲です。このシーンにおいてみると、いっそう、この曲に組み込まれた昂揚感が明瞭になります。

〈嘆きの父〉は、大の贔屓、森雅之のセリフ入りです。企画の推進者である裕次郎は、皮肉なことに、ひどいミスキャストだと感じますが(これほど大阪弁が不似合いな俳優はほかにいないのではないか?)、森雅之と田中絹代の夫婦はおおいにけっこうでした。長生きして、年老いた森雅之の演技というのを見てみたかったと、つくづくと思います。

森雅之
田中絹代と石原裕次郎。市川昆は被写体をワイドスクリーンの両端に片寄せて捉えている。
〈伊豆七島〉はこの映画のスコアのなかで唯一の4ビートです。60年代前半から中盤の日本映画を見ていると、スコアのどこかに4ビートの曲を嵌めこむのは、ほとんど常識だったのではないかと思えてきます。時代の気分をあらわすものだったのでしょう。この部分は、芥川也寸志なのか、武満徹なのか、どちらなのだろうと首をかしげています。

〈好天〉は、この映画のなかでもっとも楽しい曲です。メロディー、パーカッションの使い方、アレンジ、いずれも;好ましく、文句なしです。途中、ギター・コードのストロークが出てきますが、これまた盛り上がりますし、マイナーにいくところには、ホルンのサウンドのはろばろした感覚も相まって、心地よいセンティメントがあります。

〈走れマーメイド〉は、〈メイン・タイトル〉のアップテンポ・ヴァージョンで、直前の〈好天〉の一部に聞こえるようなアレンジが施されています。エレヴェーターに閉じこめられたようなこの映画のなかで、この2曲はおおいなる救いです。

〈近くて遠き〉は、いかにも武満徹、という曲を選んでみました。いや、シャレの好きな人間なら、お互いの役割を交換してみる、という悪戯をしかねないので、保証はできませんが、でもまあ、ふつう、武満徹の音楽といえば、だれでもこういうタイプの和声をイメージするでしょう。

だれのアイディアだったのか、たんなる苦肉の策だったのか、はたまた、なんらかのトラブルの結果だったのか、そんなことは知りませんが、芥川也寸志のオーソドクスな音と、武満徹の屹立した個性の組み合わせは、不思議な対比をなして、おおいなる魅力を発揮しています。こういうこともあるのだから、なにごともやってみないことにはわからんな、です。


◆ 出口なし ◆◆
こういう風に、映画にはまったく魅力を感じないけれど、音楽の出来は非常にいい、というのは困惑します。映画の出来を云々する以前に、音楽がひどくて怒ってしまう、というのは(そういうのは70年代以降の日本映画にかぎられるが)まだ始末がいいといえます。憤激というのはひとつの「出口」なので、「解決」がつくのです。

でも、「いい音楽だなあ」という気分と、「このストーリー、この絵では窒息してしまう」という閉塞感の組み合わせは、出口がなくて、結論のつけようがありません。製作者側としては、苦難の末にサンフランシスコに着いたときの解放感をカタルシスと考えたのかもしれませんが、もとが実話なので、ドラマティックなところはなく、ただ単に密室から這い出て、ばたりと倒れるような、カタルシスにはほど遠い終わり方です。事実は小説よりも奇なりかもしれませんが、小説より盛り上がるものなり、ではないことがよくわかりました。

ともあれ、今回は、「映画は退屈でも、音楽はすばらしい」ということは、やはりあるものなのだなあと、サントラ・ファンにいわせれば、当然かもしれないことを痛感しました。つぎも、映画の出来は『太平洋ひとりぼっち』をホコリのなかに置き去りにするほどの圧倒的なひどさなのに、音楽は楽しいという作品を予定しています。

この画角で吊り橋を捉えるのは、当時は新鮮だったのではないだろうか。時代が下ると、ジェイムズ・ボンド・シリーズにも、このような絵が出てきた記憶がある。
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